どーも。
“改”運トレーナーの前田王子です。
自己肯定感
って言葉を最近よく聞くようになりました。
まー別に新しい言葉ではないんですけど、ここ最近の流行ですよね。
お客さんや、問い合わせをくれる方の中にも、自己肯定感の低さがネックになっている人は多かったりします。
自己肯定感みたいな流行り言葉って、なんか個人的には言葉が一人歩きしていくような気がするんですけど、僕だけでしょうか?
言葉って、適した場面に適した言葉を用いないと、言葉の印象に引っ張られて誤解を招きます。
スピリチュアルが好きな人にはお馴染みの、「言霊」ってやつですね。
あれって実は、「言霊」があるんじゃなくて、言葉はイメージをハンドリングするものなので、頭で描いていた印象も、言葉を持ってそっちに誘導されるというメカニズムになっています。
そして、その説明を「言霊」という言葉で済まそうとしてしまうから、誤解が生じるんですよね。
つまり、自己肯定感を上げる言葉を吐き続けてたら自己肯定感が上がる、と考えるのが「言霊」の考え方。
でもそれって、臭いものに蓋をし続ける行為なんですよね。
思ってもない言葉を放っていても、自分の心に響いていないわけです。
そうではなくて、正確には、自己肯定感という言葉自体をもっと深く知る必要があるわけです。
自己肯定感という言葉に潜むイメージ
こういうそもそもの部分を考えることがめちゃくちゃ大事だと思うんですけど、皆さんはどうでしょうか?
そもそも、なんで「自己肯定感」という言葉が存在していて・・・
存在していて、というより、誰かが作ったわけですね。
なんでそんな言葉作ったのでしょうか?
答えは簡単、自己肯定感が低い人や高い人がいたからですね。(低い人の方が圧倒的に多いけど)
そして、そういった人たちをカテゴライズするために付けられた名前です。
そう、ただの名前なんです。
ここを踏まえる必要があります。
特に、こういった概念につけられる名前には注意が必要なんですが・・・
目で見て確認できるものには、一言でそれと表せる名前がついています。
「りんご」や「みかん」と言われれば、頭の中でそのイメージがすぐに湧きます。
そして、「青りんご」「夏みかん」と言われれば、同様にイメージできます。
つまり、「りんご」や「みかん」と言ったモノの名前は、±0(基準となるところ)を表すことができるわけです。
「カップ」が基準にあって、「コーヒーカップ」「ティーカップ」「マグカップ」・・・といった具合に派生していけるわけです。
派生していくためには、基準が必要になります。
つまり、数学のxy軸のグラフで言うところの、±0のところですね。
では、目で見えないモノ、つまり「概念」に付けられた名前はどうでしょうか?
「好奇心」「探究心」「やる気」・・・といった感じに、±0の部分を表現することが難しいです。
「奇を好む心」と書いて好奇心なわけで、好奇心が「ある」と言うことは、プラスに作用しますが、好奇心が「ない」という表現は、マイナスに作用します。
この感じ、分かるでしょうか?
好奇心と言われれば、それはそもそもポジティブな方向性を孕んでいるわけです。
「探究心」も「やる気」おなじくですよね。
このように、概念というのは、±0の位置を示すことができません。
そしてそれは、言葉の性質上仕方のないことです。表現の限界と言いますか。
では、「自己肯定感」という言葉はどうでしょうか?
そもそもポジティブな方向性を孕んでいる言葉なんです。
まず、この自己肯定感という言葉自体には、ポジティブな方向性が内在しているというイメージを持つことが大事なんです。
そして、これは僕の偏見ですが、自己肯定感という言葉が生まれた背景には、自己肯定感が低い人が多くいたから、自己肯定感が低いという言葉が生まれたんだと思います。
イメージできるでしょうか?
自己肯定感が低いと表現した時に、なんか持たざる者感というか、持ってないといけないものを持っていないような残念な印象を受けるわけです。
りんごを持っていないことは、何も悪いと思わないです。
でも、ポジティブな方向性を孕んだ概念を持っていない、ということは、劣等感の匂いがしてしまってイヤなんです。
自己肯定感を高めよう!(笑)
さて、自己肯定感という言葉に含まれる方向性が分かったかと思いますが、問題はここです。
- 自己肯定感を高めよう!
- 自己肯定感を持とう!
といった表現が、本やネットに気軽に書かれているんです。
これ、実はめちゃくちゃ問題なんですよ。
こんな表現をするから、良くなるものも良くならないんです。
どういうことか、という話ですが・・・ちょっとややこしい話をします。
自己肯定感というのは、「概念」です。
自己肯定感といのは、「概念」に付けられたただの名前です。
では、自己肯定感が低い、と言われる人、そう自認している人は、自己肯定感という「概念」を持っているでしょうか?
ここが大事なんです。
自己肯定感が低い、とされる人は、自己肯定感という概念を持っていません。
そもそも、(多くは環境的に)自分を肯定的に見る訓練をしてこなかったので、自己肯定をするという発想の種を持っていないんです。
種のないところに水を巻いても芽が出ないように、自己肯定感を高めようとしても、そもそも無いものを高められないんです。
ここのギャップに苦しむ人は多いです。(鑑定依頼をされる方も、このギャップに悩む方が多い)
その人たちは、自己肯定ではなくて、息を吸うように自己否定をしているんです。
つまり、自己否定という土台を持っているので、まず土台から変えないと意味がないわけです。
例えるなら、女性用トイレのマークにショルダーバッグをかけようとする感じです。

なで肩すぎてカバン落ちちゃいますよね 笑
それでも、ショルダーバッグが流行りだからって一生懸命肩から下げようとしても、かけられないものはかけられないわけです。
だから諦めろ、自己肯定感が低いまま生きてくれ、という話ではなくて。
自己肯定感が持てない、自己肯定感が高くならない、ということに、まず気付こうよ!という話ですね。
大事なことは、自己肯定感が持てないことでも自己肯定感が高くならないことでもないんです。
もう一つ前にある、自分の前提がどうなっているのか、という部分を観察することが大事なんです。
ホント、なで肩ショルダーバッグみたいに、自己肯定感が持てなくて、自己肯定感が高くならなくて自己肯定感難民になってる人は、驚くほど多いです。
でもよく考えてみたら、「そりゃそうだ」って話じゃない?
って思います。
まず、自分に否定的な自分を認識する
自己肯定感を高める前に、まず、自分に否定的になっている自分を認めないと、自己肯定感なんて持てたもんじゃないです。
なんて言うか、穴の開いた財布にお金入れて、使ってないのにお金がなくなるんですっていってるみたいなもんです。
そして、これも大事なことなので何回も言いますが、自己肯定感が持てないこと自体は悪いことではないです。
だってそもそも持ってないんだもん。
持ってないモノを「持ってない」と言われたって、「そうですが、何か?」って話です。
自己肯定感を持っていないことが、「悪いこと」のように語られているということが、アナタにダメージを与えているということなんです。
変なバイアスがかかっているだけなんです。
ちなみに、こんなことを書いてる僕も自己肯定感なんてのは持っていない人でした。
でも、自己肯定ができるようになったんじゃなくて、自己否定をしなくなった、自己否定をする必要がなくなっただけなんですよね。
自己否定をしない自分でいるために、自己否定をしている自分を見つけるわけです。
見つけるというか、現行犯逮捕する感じで取り締まっていきました。
だって、日々頑張って生きてる僕が、なんで自分で自分を否定しないといけないんだって話ですよね 笑
勝手な何かと比べて、勝手に自己否定に陥ってるだけで、実は自分は、ただ日々頑張ってるだけなんです。
どこに否定するポイントがあるってんだ!って感じです。
そう思えるようになったから、だんだんと自分を否定する頻度が減っていき、いつしか

って思えるようになった次第です。
その結果として、自己肯定感と呼ばれる概念を理解していった感じです。
自己肯定感を上げようとして上げたわけじゃないし、そんなもん上げようとして上がるモノじゃないんですよね。
入り口が間違っているから変なとこに出てしまっているだけなんです。
ホント、自己肯定感を上げるとか自己肯定感を持つとか、砂の上に城立てるようなもんなのでヤメた方がいいですよ 笑
自分に否定的な自分を見つけて行ったその先に、自ずと自己肯定感と呼ばれるモノを理解できた自分が待っている、というだけなんですよ。