どーも。
“改”運トレーナーの前田王子です。
「自分探し」
っていうなんかこう、若気の至りの極みの頂の果ての先の向こうみたいなことを人はするわけですが、探してみた結果、果たして無事自分を見つけた人はいるのだろうか?なんてことを39歳になった時に改めて思った次第で。
どこにいんだよ自分!
「自分探し」なんて言うくらいだから、きっとどこかにいるんじゃないかとか、インドかどっかしらの異国の地に生えてるアガステアの葉に自分の全てが書いてあるとかなんとか、そんな「何か」や「どこか」にいるはずの自分を探してしまうわけですが、ほんと、結局のところ、
なんてことになり、結局諦め出したくらいから人生楽になるパターンなんかが多かったりするわけで。
人は「自分」と言う存在を、そんなとこにいるはずもないと分かりながら、向かいのホームや路地裏の窓を探してしまうものなんですよね。
「自分」の居場所
かく言う僕も、「自分」というものがなかなか分からず、あちこち探し回って、探し回る途中で占い師になったクチです。
で、なかなか芽が出ない頃や、すごいなーと思う誰かに出会うたびに、「いつか自分もそうなれたら」なんて思ってたもんです。
で、
最近お客さんと話しててもよく思うんですが・・・
よくよく考えてみると、「自分」なんてのは「どこか」にあるわけでもなく、「誰か」が知ってるわけでもなく、結局のところ自分の中にしかいないんだなーってことが分かりました。
自分探しをしている時に自分が見つからないのは、おでこに乗ってる眼鏡を手探りで足元を探してみつけようとするようなアプローチだったわけです。
そりゃ見つからなくて当然ですよね。
とはいえ、外側のどこかを探さないことには、
ってなことに気が付かないわけでジレンマ感じるんですけど。
「自分探し」ではなくて
言葉ってのはホントに素晴らしい反面、その使い方を誤ると、ついつい言葉の牢獄にハマります。
「自分探し」って言葉がキレイなもんだから、ついつい外側を探してしまうんですよね。
じゃあ、「内側」を探せばいいのか?
というと、それも違くて。
三つ子の魂百までという素晴らしい言葉があるんですが、まさにその通りで、僕も、コレを読んでいるアナタもアナタのお母さんもお父さんも、あの偉い発明家も凶悪な犯罪者も、みんな共通して三つ子の魂百までなんです。
つまり、既に持っているんですよ。
自分の中に。「自分」ってやつを。
だから、そもそもの話「見つける」とか「探す」って言葉自体がミスリードだったんです。
持ってる「自分」を「再確認」する。
コレが大事なんです。
「自分探し」というのは巧妙な罠で、自分を探しているということは、自分の中に自分がいないということを暗に示しています。
言葉というのは、発したそれ自体の言葉よりも、その周辺視野のような部分にこそ実はピントが合ってしまうものです。
つまり、「自分探し」という言葉を使っている以上、自分の中にあるはずの自分(三つ子の魂)を否定し続け、あるはずのないものを外に求め続けることを意味するわけです。
なので、わざと言葉で表すなら「自分探し」ではなくて、「(自分の中の)自分見つけ」なんです。
百歳まで続く三つ子の魂なんてのは、現代においてはいとも簡単に否定されてしまいます。
どうやって否定されちゃうか、についての話は↓の記事を参考にしてみてください。
占いで未来を知る、なんてのも意味がなくて、本当に知るべきは、自分の中に封印してしまっていた三つ子の魂なんです。
そいつを助け出せば、誰でも簡単に無敵になれるのに・・・
なんてことを、日々お客さんの命式を見ながら思ったりしている今日この頃でございました。