どーも。
“改”運トレーナーの前田王子です。
うちの二つ隣の部屋のお子さんなんだけど、ほぼ毎日、車に乗るときにお母さんとバトルを繰り広げている。
[voice icon=”https://maedaouji.com/wp-content/uploads/2020/11/iraira.jpg” name=”怒れるお隣さん” type=”l icon_red”]早くこっち来なさーーい!![/voice]
[voice icon=”https://maedaouji.com/wp-content/uploads/2020/11/nakukodomo01.jpg” name=”泣くAくん” type=”l icon_blue”]やーーーだーーー!!うわぁーーーん!![/voice]
[voice icon=”https://maedaouji.com/wp-content/uploads/2020/11/iraira.jpg” name=”怒れるお隣さん” type=”l icon_red”]靴履いてないじゃない!!もー!履いてきなさい!![/voice]
[voice icon=”https://maedaouji.com/wp-content/uploads/2020/11/nakukodomo01.jpg” name=”泣くAくん” type=”l icon_blue”]いーーーーやーーーだーーー!!うわぁーーーん!![/voice]
[voice icon=”https://maedaouji.com/wp-content/uploads/2020/11/iraira.jpg” name=”怒れるお隣さん” type=”l icon_red”]履いてきなさい!!もー!言うこと聞きなさーい![/voice]
[voice icon=”https://maedaouji.com/wp-content/uploads/2020/11/nakukodomo02.jpg” name=”泣くAくん” type=”l icon_blue”]ゔわ゛ぁ゛ーーーーーーーーん!![/voice]
[voice icon=”https://maedaouji.com/wp-content/uploads/2020/11/iraira.jpg” name=”怒れるお隣さん” type=”l icon_red”]早くしなさい!!もー!!置いてくよーー!![/voice]
[voice icon=”https://maedaouji.com/wp-content/uploads/2020/11/nakukodomo03.jpg” name=”泣くAくん” type=”l icon_blue”]やだーーーーーーーーーー!!!ぎゃーーーーーーーーーーーーん!![/voice]
と、週1回くらいはこんな感じで、それがちょうど朝の8時くらいなので、僕はその声で起きることが多い。
毎朝のバタバタ劇の一幕ということで、日常の風景ではあるものの・・・
その数年後のママさんのような方からの相談を受ける身としては、何とも複雑な気分である。
忙しいママさんなので、子供が言うことを聞かないのは生活時間を圧迫するわけで、それは確かに怒りたくもなるのだが・・・
歴史を振り返ってみても、圧政というのは、反乱によって崩壊するものだ。
そこで、推命家の立場としては、和解の道はないんだろうか?と、思うのです。
誰が悪いのか、ということではないけれど・・・
言うことを聞かない子供と、怒れる親。
この構図は太古の昔から存在している。
そして、子供は家族以外のコミュニティに属してはいないし、親は、親同士のコミュニティの中にいる。
つまり、親同士は情報共有ができるので、
「うちの子全然言うこと聞かなくて〜」
「それならまだマシよ〜、うちの子なんて〜」
という何の自慢だよ!という、うちの子言うこと聞かないグランプリが、日々どこかで開催されている。
これによって、親はどう言う認識になっていくかと言うと、
子供は親の言うことを聞かない
ということになっていく。そういう世界観だと認識してしまう。
確かに、親目線だとそうとしか見えないので、この結論はごもっともなところである。
だけど、子供目線で見てみると、先ほどの親子バトルでいうと、靴を履いてこなかった子供は、靴を履く習慣がまだ備わっていないから靴を履かずに出てきたのではなくて、明らかに怒られる行為を選んだと言える。
子供にとって、親に怒られるということは、大人が持つ感覚とは違う。
子供にとって親に怒られるということは、威嚇されて怖い、という恐怖心はあるものの、親の意識をこちらに向けることができたという一種の安堵感も併せ持つ。
そして、怒られたことに抵抗して泣くわけだけど、これも、靴を履きたくなくて嫌がって泣いているのではない。
その日は、行きたくない状況を作ってしまったが、その行きたくない気持ちを持ちつつも、頑張って外まで出てきたのだ。その過程で、靴を履くことを忘れてしまったわけだけど、まずは外まで出てきたことを褒めてほしい、ということが言える。
[voice icon=”https://maedaouji.com/wp-content/uploads/2020/02/asekakujosei.jpg” name=”不思議がるAちゃん” type=”l icon_red”]この子、靴履かずに外に出てきて気持ち悪くないのかしら?[/voice]
というのは、あくまで大人の視点である。
子供は親の言うことを聞かない、というわけではなくて、子供の中には、大事に取り扱われなかった何かがあって、それを取り扱ってもらいたくて注意を引く。
先に書いた、行きたくない状況というのがそれに当たる。
その子が、なぜ行きたくないかということを考えていくと、靴が履きたくないわけでも、幼稚園に行きたくないわけでもなくて、朝起きてから家を出るまでの間に、大事に取り扱われなかった何かがあるはずなのだ。
だから、それを取り扱ってもらおうとして子供は泣く。
つまり、親の言うことを聞かない、親に反抗して泣く、ということではなくて、子供の中では、先に、自分ががんばってやったはずなのに、親に大事に取り扱われなかった何かがあるから、その箇所について反抗して泣くわけだ。
なので、
[voice icon=”https://maedaouji.com/wp-content/uploads/2020/05/ibukaruA.jpg” name=”新米ママさん” type=”l icon_red”]うちの子は言うことを聞かない[/voice]
であると同時に、
[voice icon=”https://maedaouji.com/wp-content/uploads/2020/11/ibukarukodomo.jpg” name=”反抗的?な子供” type=”l icon_blue”]お母さんは僕のことをちゃんとみていない[/voice]
ということになる。
誰が悪い、というわけではないけど、両者の思いはこんな感じになっている、という構図を、心の片隅に少しでも置くことができれば、もっと人は優しくなれるんじゃないかと思う。
そしてもっと、不当な怒りや諍い(いさかい)も少なくできるんじゃないかと思う。
泣き喚く子供、もしかすると大物の予感
ギャン泣きする子供を見てみたときに、四柱推命的には、将来大物になるような気がする。
ただそれは、「そこまでの自己主張ができる人だから」という理由になるわけなんだけど、多くの場合は子供の頃にその気質をへし折られてしまう。
四柱推命の「命式」というものは、その人の「器」という意味合いが強い。
大きい器だから、たくさん入る。
硬い器だから、叩くと痛い。
真っ直ぐな器だから、測ることに長ける。
柔らかい器だから、緩衝材になれる。
といった具合に。
だから、ギャン泣きして自己主張ができる子供というのは、相当意思の強い器を持っているんじゃないだろうか、という予測が立つ。
子供はギャン泣きするものだけど、いつものあの子は、毎回折れることなくお母さんと戦っている。
見方によっては、相当なメンタルの持ち主に思えるわけだ。
だけど、器は使い方を間違えれば、全く不要の存在にもなってしまう。
毎回折れることなく吠え続けるその子のメンタルを、時間をかけて親がへし折ってしまったら、きっとその子は牙のないライオンというか、弾の入ってない銃というか、刃のない刀というか、そんな形に育つんじゃないかと思う。
とんでもない才能を秘めた器なのに、親の忙しさでそれを潰してしまっては意味がないし、何より子供がいたたまれない。
そういう親子関係の中で育つしかない世界だから、仕方のない部分ではあるものの、僕のところには、牙を折られたお隣さんとこの子の数十年後の人たちが来る。
皆さん非常に素晴らしい器の持ち主ばかりなんだけど、その使い方をすっかり忘れてしまっていたり、「こんな形の器じゃダメだ・・・」と思ってしまっていたりする人は多い。
僕は「適材適所」という言葉が好きだけど、四柱推命をやって人を見るようになって、よりその言葉が好きになった。
人は、自分の器の形を認識して生きれば、必ず輝くものなのだ。
たとえ、子供の頃に自信を失ってしまって、いつしか自分の可能性を封印してしまったとしても、「理解」という鍵で、その封印は開けられることを僕は知っている。(それが仕事だからね)
大人になってから、改めて自分の可能性、自分の器の形に気が付くことも、全然遅くはない。
だけど、未来の可能性を、知らず知らずのうちに自分のエゴで潰してしまっているとしたら、それは結構な罪になると僕は思う。
誰でも我が子は可愛くて、「もしかして天才なのでは・・・」と思うこともあると思う。
実は、それすらも間違いではなくて、器にあった可能性を提示することができたなら、きっと誰だって天才なはずなんだ。