運気について

占い師としての僕の自論「運は存在しない」という話

どーも。

“改”運トレーナーの前田王子です。

 

タイトルは「占い師」となってますが、大分類「占い師(占術を扱う人)」の中の、「推命家」という立ち位置でやらせてもらってますので、表記を「占い師」としました。(タイトル的にその方が分かりやすいし)

細かい話なんですけどね 笑

 

さて、僕の自論。

 

「運は存在しない」

 

という話ですが、これは厳密に言えば、

  • 一般概念で「運」と思われているスピリチュアルエネルギーは存在しない
  • 「運」というのはエネルギー体ではなく、人が作った概念である

ということになります。

新種の昆虫を発見したみたいな感じで、

 

運がいい兎
運がいい兎
お!こんなところに「運」みーっけ!

 

とはならない、という感じです。

運についての話は、拙書「開運体質のつくりかた(笑)」に詳しく書いてあるので、是非読んでみてください。

 

あくまで、「運」だと思われているモノは概念だ、という話をしているだけで、神社や石などから出ている波動などは存在していると思っています。というか、存在しています。

気功やレイキなどの、見えなくて、計測もままならない力を体験したことがあるし、むしろそっち側から占いにたどり着いた人なので、見えないエネルギー系に関しては一家言持ちと自負しているところです。

 

エネルギーとしての矛盾

僕は科学者ではないので、理系な話はできませんのであしからずですが・・・

基本的に「エネルギー」というのは、直接的作用をもたらすものです。

つまり、水を火で熱すると水は温かくなり、風が吹くとこの葉が転がるわけです。

 

基本的にこの世界の原理というのは、Aというエネルギーは、Bという効果を生んで、Cという現象を起こす、というような、直線的な関係になっています。

 

となると、「運」というエネルギーがあるとすると、どのように作用するのか?という話になります。

「運がいい」「運が悪い」という表現があるわけで、そこには明確に尺度が存在しています。

運がいいから遠足の日に晴れて、運が悪いから鳩にフンをかけられた、運がいいからいいからイケメンと付き合えて、運が悪いから結婚詐欺にあった、というような表現で「運」は語られますが、非常にアバウトで、主観的すぎます。

普遍的に存在しているエネルギーだと考えると、どうにも辻褄が合わなくなってしまうわけです。

 

当たり前のように現れたり消えたりする「運」

サッカー日本代表がW杯で優勝できないのは運のせいだ、というのがおかしな話なのは分かるかと思います。

また、井上尚弥選手がジェイソン・マロニー選手に勝てたのは運を掴んだからだ、というのもおかしな話で。

 

実力に差がある時、「運」というのは姿を消します。

 

僕が運良く東大受験に合格することはありえないですし、神社仏閣、ありとあらゆる風水や占いを駆使しても、僕がTOEICで900点を取るには、圧倒的に英語力が足りません。

 

でも、例えば遅刻しそうな時、運はギリギリで電車に乗せてくれたり、青信号を続けてくれたりします。

これも、そもそも遅刻しない時間に出発すれば、運は味方してくれはしませんが、確実に間に合います。

 

よく占い師は、「運のいい時期」「運の悪い時期」という表現をしますが、運がいい時期に彼女と別れることだってあるし、運の悪い時期に懸賞に当たることだってあります。

「運が悪い」とされている時期に、絶対にガリガリ君の当たりが出ないということもないし、その時期には絶対おみくじで大吉だけが出ない、ということもありません。

なぜなら、ガリガリ君の当たりも、おみくじの大吉も、存在しているからですね。

 

「運」の違和感

「運がいい」とされる状況を言語化すると、「初回、または数回目以内に、自分にとって都合のいい状態に巡り合うこと」と言えると思います。

 

逆に、「運が悪い」とされる状況を言語化すると、「いつまでも自分にとって都合のいい状態にならないこと」と言えます。

 

誰かのことを、「運がいい人だな」と思うことがありますが、それは、「その人にとって都合が良い状態に、誰かがなった」と表すことができます。

お金持ちの親戚が宝くじに当たれば、「運がいいなーちきしょー!」と思える、そんな感じです。

 

「運」というのは、誰しもが持っているもの、どこにでもあるもの、というような言われ方をしますが、いつも非常に主観的なものなんです。

僕はここに違和感を感じずにはいられません。

 

運良く遠足の時に晴天だったとしても、雨が降って欲しかった人にとっては運が悪いわけで、そこには、スピリチュアルワールドでの運の綱引きが行われた、ということでしょうか?

見えない世界の天使と悪魔の激闘の末にもたらされる「運」というエネルギーによって、運良く遅刻せずに済むのなら、僕が天使ならもっと早く家を出るように仕向けます。

 

概念としての「運」という発明

冒頭でも、「運は概念」だと言っていますが、運という概念は、神様が作ったモノではなく、人間が作ったモノです。

神様、僕の言葉で言うならこの世界を作ったデザイナーのことで、いわば創造主のことですね。

 

創造主が作ったこの世界というのは、基本的に計測・軽量ができる世界です。

長さも重さも音も光も濃度も密度も、基本的には全て測れます。

人が死んだ時、21gだけ軽くなるそうですが、もし魂というものがあって、それが21gだったとして、その内訳まではまだ分からないという話です。

ただ、「まだ分からない」という状態だ、ということですね。

 

対して、「運」という概念は、人間の頭の中にだけ存在しています。

そして、「運」という概念を認識するから、「運」という世界観がその人の中に存在することになります。

なので、運の尺度も、その人の思考・思想に由来することになります。

 

ある状況を指して、「運がいい」「運が悪い」ということができますが、よくある話で

 

ラッキー!まだあと5分ある!
えー!もうあと5分しかない!

 

というのも、その人の尺度によります。

運というのは、折り重なった状況の結果を、どう判断するのかという価値観で、なぜ「運」という概念が存在するのか、なぜ「運」という価値観が必要なのかというと、人間の頭のシステム上、理不尽に対して真正面から向き合うことが面倒だからだと僕は思っています。

 

「塞翁が馬」という話がありますが、その話のように、アンラッキーな出来事がラッキーな出来事に変化して、ラッキーな出来事がまたアンラッキーに変化して、さらにまたアンラッキーな出来事がラッキーな出来事に変化して・・・と、その人の歴史って山あり谷ありです。

僕も、20代の頃は(ものすごく尖っていたので)絶対に地元の工場なんて最底辺の職場で働いてたまるか!とか思っていたのですが、30歳の時に働いていた工場が、親友と、ミスをしない価値観と、要領の良さを僕に与えてくれました。

でも、その工場に入社するときの僕は、もう人生終わったと思っていたし、光回線の営業がバブルの頃(月収40〜50万くらいもらってた)に20代を過ごした僕にとっては、もう人生転落するしかないんだと思ってました 笑

そこからまた紆余曲折を経て占い師になって楽しくやってるわけですが、運によって導かれて僕はこうなったのでしょうか?

 

・・・って言われても「知らんがな!」って話ですよね 笑

 

つまり、人の歴史の詳細を事細かに追求するのが大変すぎるので、なんやかんやでこうやって生きていられることを、「運がいいね」と表現するわけです。

そして、これから占い師になりたい人やフリーランスになりたい人は、僕のことを「運がいい」と言うでしょうし、高級タワマンに猫と住んでる人のことを、僕は「運がいいな」と思うわけです。

その人が、どんな人生を歩んできたかをいっさいがっさい差っ引いて。

 

そう、大事なことは、「運」という言葉を使うと、難しい話が、一気に簡単になることなんです。

簡単になると言っても、「分かりやすくなる」ではなくて、省いて、(大変な部分を)省略して、簡素化するから「簡単になる」だけです。

 

脳の処理能力に負荷をかけないという意味で、「運」という概念は大発明です。

 

ですが、原因の追及、問題の解決においては、「運」という概念が、大事なところを見落としてしまう悪癖になってしまいます。

 

それは「運」ではなくて

もし、あなたが好きな人と付き合うことができたなら。

もし、あなたが入りたい会社に入れたなら。

もし、あなたが大事な勝負に勝つことができたなら。

 

それを「運が良かった」と片付けることもできますが、そこにはあなたの「実力」も同時に存在するのではないでしょうか?

そもそもの話、実力があるから成し得たことではないでしょうか。

つまり、成し得たその結果から、あなたの実力の部分を見つけることができるのではないでしょうか。

その実力の部分を見つけることで、自分を誇れるようになるのではないでしょうか。

 

成し得た成果に慢心するのはダメですが、自分の力を正しく評価できないことも、同じくらいダメです。

 

僕も、基本的に自信がないので、新しいことにチャレンジすること、人前に出ること、スーツを着た人に自分を売ることがホントに苦手です。

でも、僕と話をした人の中には、「もっと有名になっていいのに」とか、「本書いたら売れると思う」などと言ってくれる人がいます。

そう評価してくれる人たちは割とたくさんいるんですが、当の本人は、「いやいや、そんなそんな・・・」と、謙遜というオブラートでくるんだ尻込みをします。

 

今のは運の話とはちょっと違いますが、何が言いたいかというと、運という概念によって、僕の例のように自分の実力に気付く機会を失っている、ということです。

誇っていい実力があるけど、それが言語化できていないし考えるのが大変だから、「運」という一言でまとめてしまうわけです。

 

同様に、「運が悪い」についても、「運」という概念によって、自分が改めるべきポイントが見えなくなってしまいます。

うまくいったことには原因があるように、うまくいかなかったことにも必ず原因があります。

ただ、そのピンポイントの部分の言語化が困難なので、脳は負荷を避けるために「運」という概念にすり替えます。

 

つまり、「運」という概念は、脳が負荷を避けるために編み出した必殺のサボり技のことで、自己成長・自己研鑽とは対になる考え方だということです。

 

なので、「運」を上げることを望むということは、サボって楽をするということになります。

 

とはいえ、未知のエネルギーはある

皮肉にも、運の謎を追求しようと占い師になった結果、「運は存在しない」という結論に至ったわけですが・・・笑

 

人を癒す波動や体のパフォーマンスを上げる石など、未知のエネルギーを持ったモノは存在しています。

冒頭でも書いたように、むしろ僕はそのあたりのトンデモ科学マニアなので、テラヘルツのネックレスが足腰を良くしたり、月の光が腐食を促進するとか、太陽光を摂取して生きていくとか幽体離脱を促す音とか肉体の回復を促進する波動とか、薬事法に触れすぎて書けないことだらけで泣きたいくらいです。

ただ、トンデモ科学とされるどんなモノでも、効用としては、直接的な作用をもたらすモノばかりです。

「風が吹けば桶屋が儲かる」という諺もありますが、これは神風がふいて桶屋に小判を飛ばした話ではなくて、 風が吹く→土ぼこりがたつ→ほこりが目に入り盲人が増える→盲人は三味線で生計を立てようとする→三味線の胴を張る猫の皮の需要が増える→猫が減るとねずみが増える→ねずみが桶をかじって壊す→桶屋がもうかって喜ぶという、因果関係の例え話です。

 

もし、「運」というものが良くなったから意中の人に告白された、と結論付けるなら、何によって運が上がり、なぜ運が上がったことで意中の人が告白してきたのか、という因果関係が説明できません。

「説明できない」というより、一つ一つの因果関係を飛び越えてしまっているわけです。

因果関係を飛び越えてしまっているというより、話として「雑」です。

 

理に反することが、当たり前のように「運」という言葉で結論づけられてしまうことが、占い師として違和感で仕方がないわけですね。

そして、「運」という概念を取っ払って考えていくと、その人のストーリーは、一本の線で描けるようになるんです。

 

当然のことながら、「運」というエネルギーが、まだ計測できていないだけで実は存在しているのかもしれません。

でも、「運」ということに期待するあまり、やりたいことを阻害されたり、結果が芳しくないのであれば、「運」というフィルターを外してみることには、大きな価値があるんじゃないかと思うんです。

 

ABOUT ME
前田王子
四柱推命と易を使う占い師。 占い歴12年。 陰陽五行の知見と心理学・脳科学を使って、運が良くなる考え方を発信しています。 運が良くなると、人間関係や恋愛、お金や仕事など、人生の全ての歯車が噛み合います。 そんな前田王子ならではの目線でお送りするブログです。

↓↓記事が「おもしろい!」と思ったら、こっちはもっと面白いです↓↓

COMMENT

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です