どーも。
前田王子です。
才能なんてものはあったらあっただけいいと思うんですが、なかなかそうもいかないのが世の常というもので。
もちろん僕も、才能があったらいいな!なんて思うことはよくあります。
なんてことを言われるわけですが、それはあなた、何年やってると思ってるんですか!って話をしたくなります。
かといって、自分に占いの才能が無いかと言われれば、多分それなりにあるんだろうな、とは思います。
どっちやねん!って話なんですけど、才能ってそんな感じでフワッとしてるところがあるように思います。
ご依頼いただく内容でも、「自分の才能を知りたい」というのは非常い多いです。
それだけ、人は自分の才能というものを自覚できません。
そして、人の才能(っぽいもの)を見て羨ましがる生き物です。
あなたには、才能があるんでしょうか?無いんでしょうか?
今回は、そんな才能という言葉に悩める人のための記事です。
才能とは何か?
では、そもそも「才能」というのは何なのでしょうか?
才能とは、
生まれつきの能力。 また、その働きのすぐれていること。
と言われています。
生まれつきの能力。
いい響きですよね。
生まれつきの能力。
きっと、多くの人が才能だと思う部分はここだと思います。
商売の才能とか、スポーツの才能とか、人たらしの才能とか、いろんな才能と呼ばれるカテゴリーが存在しますが、その全ては、なんとなくその人が生まれつき持っている能力のように思えます。
あの人の才能はどこから?
才能のことを、その人が生まれつき持っている能力のように解釈することが多いですが、それは半分正解で、半分間違いです。
僕は四柱推命という生年月日からその人を見る占いも使いますが、四柱推命で表現される先天性というものは、方向性でしかありません。
自己主張が強いとか、献身性が高いとか、何かをコントロールする(扱う)のが上手いとか、そういった方向性が表現されています。
自己主張が強い人は、「俺は海賊王になる男だ!」みたいなことが言えてしまうわけで、そういう人の気質をリーダーシップなんて言ったりします。
ですが、これを裏返すと「わがまま」ということにもなります。
そんな感じで、先天的に決まっている部分というのはなんとなくの方向性のみで、90%以上の部分は後天的、つまり育った環境による影響で変わります。
親ガチャなんて言葉もありますが、確かにそう言いたくなる節も理解できるくらいに、親による影響力、強制力というのは非常に大きいです。
才能の話に戻りまして、才能があるあの人のその「才能」というのは、どこから来ているのでしょうか?
その答えは、生まれた時からではないということをまず断言しておきます。
これが分かると、「才能」という理不尽なステータスがちょっと理解できてきます。
才能はどこにある?
では、才能というのはどこにあるのでしょうか?
人の9割は後天的性質によって形作られています。
例えば、スマホが苦手な人は、生まれたばかりの赤ちゃんの頃からスマホが苦手だったわけではありません。
もしかしたら、スマホを手にするのが遅かったのかもしれませんし、読み物は紙で読んだ方が良くて、調べ物は辞書を使う、という環境なのかもしれません。
そんな人であれば、スマホを使うことが少ないはずなので、結果的にスマホが苦手ということになります。
この現象をもう少し詳しく書くと、スマホを使う必要がなかったので、スマホに馴染みがない。だから分からないし、詳しくなろうとも思っていない。ということではないでしょうか。
こんな感じの人は、例えば旅行の予約や電子決済をする時に、苦手意識を持つはずです。
では、スマホを扱うのが上手な人は、どんなルートを歩むのでしょうか?
おそらく、小さい頃からYoutubeを見るためにスマホを触っていて、その時に出てきた分からない単語や用語はスマホで調べて、読めない漢字や外国語はカメラアプリを使って解読したり、フリーズして困ったりした時にはその対処法を調べたりするのではないでしょうか。
そうすることで、必然的にスマホと関わる時間が長くなり、スマホの機能、スマホで出来ることについて詳しくなっていきます。
でも、その人にもスマホが分からなかった時代があるわけで、赤ちゃんの頃から上手だったわけではありません。
もし、先ほどのスマホに苦手意識を持っている人が、スマホの扱いに長けた人を見たら、
と思うのではないでしょうか。
こんな感じで、才能というのは後天的な性質で、本人としては、その性質が才能と思うこともなく身につけているものになります。
つまり才能とは、あなたが長く携わってきて、今となっては当たり前のように出来ることを他人が見た時の評価のことを指します。
だから、才能って自分の中じゃなくて相手の中ばかりに見つかるんです。
でも、当の本人としては続けることが苦じゃないことを続けていただけで、それを努力とも思っていないので、才能とすら思っていない、というのが実際のところです。
才能がないと思える時
「才能」がどういうものかが分かったところで、人はどんな時に「才能が無い…」と思ってしまうのでしょうか?
例えば仕事で、同期入社の同い年のあの人はサラッと仕事をこなすけど、自分はどうしても時間がかかってしまう・・・
他にも、あの人は遊んでばっかりいるように見えるけど、なんであんなに勉強ができるんだろう?と思う時にも、才能の差を感じてしまいます。
これらのシーンを詳しくすると、
- 他人との力量の差を感じた時
- 同じくらいのタイミングで始めた
- 努力の形跡が見えない
といった具合になります。
そして、才能が無いと思ってしまう人としては、
と思うことでしょう。
つまり才能が無いと思えてしまう条件というのは、自分が苦戦しているのに、涼しい顔してこなされてしまった時と言えます。
自分が頑張っているにも関わらず、サラッとやられてしまうとツラいものです。
自分の頑張りに対してあの人の頑張りが、どうしても釣り合わない気がしてしまう。
そして、頑張ってもできない自分には、それをこなすための必要なスペックが備わっていない、つまり、才能が無いと思えてしまうのです。
なぜ才能が無いと思うのか
「自分には才能が無いんだ・・・」
と悲しくなる時がありますが、なぜそう思うのか。ここを知ることが非常に大切です。
なぜ、自分には才能が無いと思ってしまうのか。
自分には苦戦している自覚があるにも関わらず、他人が涼しい顔してやってのけると、つい自分の才能を疑ってしまいます。
問題はここにあります。
その「涼しい顔してやってのけた他人」は、全く努力をしていなかったのでしょうか?
また、自分の「苦戦」は、一体何に苦戦していたのでしょうか?
先ほどのスマホの例であれば、スマホが苦手な人は、用語レベルで苦戦しがちです。(アカウントとかパスワードって言葉に拒否反応しちゃうような)
ですが、スマホが得意な人は用語で苦戦しないので、スムーズに扱えます。
でもこれって、今までのキャリアの差、育ってきた環境の差がありますよね。
世界地図が好きな子は地理に詳しくなるし、三国志が好きな子は歴史に詳しくなるし、経営者の息子は人を使うのを見て育つし、料理上手な親の子は舌が肥えるといった具合に、育ってきた環境によって左右される素質があります。
才能があると思える人は、環境によって身についた能力と今やってる仕事の親和性が高いから、スムーズに進む部分が多くなります。
そして、そういうサラッとこなす人を見て「自分には才能が無い…」と思ってしまう人は、スマホが苦手な人のように、その物事における序盤の部分(用語や単語、読み書きのような部分)で躓いている可能性が高いです。
さらに、その序盤の部分を攻略することに、必死になって頑張っているんです。
頑張っているから、サラッとこなす人を見ると劣等感が出てくるんです。
なので「自分には才能が無い…」と思ってしまう人は、もう既にかなり頑張っているんです。
ただ、その頑張りが効果的かどうか、ということは置いておいて。
もう一度言いますが、とにかく既に頑張っているんです。
頑張っているのに結果が出ないから、「才能が無い…」と思ってしまう、というメカニズムになっています。
理解しようとしない大人たち
僕も才能が無いと悲しんでいた村出身なのでよく分かりますが、才能が無いと悲しむ人たちのことを正しく理解しようとする人はなかなかいません。
問題は努力の量ではなく、なぜか自分の苦手のフィールドばかりに挑んでしまう思考や、それに伴う劣等感なんです。
基本的に、すべての人には「才能」と呼ばれるものがあります。
ただ、その「才能」は咲くところでしか咲きません。
才能が無いと悲しむ人たちは、自分の才能に気付かずに生きてきたり、才能に気付かされずに生きてきた経緯があります。
あとは、苦労することを美学と思わされてきたり、上手くいって喜んでいる時に「調子に乗るな」と怒られてきた経験もあるはずです。
そうやって、あなたの才能の芽は知らない間に摘まれていたんです。
だからあなたの中には才能が見当たらないんです。(本当はあるのに)
かくいう僕がまさに全部当てはまる人なので、気付いた時にはビックリでした。
いつの間にか才能に気付くセンサーを封印されて、それに気付かずに生きてきて、さらに苦労を美学、頑張ることは素晴らしいと思ってきたので、頑張って苦労する人生でした。
おかげでいろんなことが身についたので、今となっては重宝している部分はありますが、ずーっとしんどかったです。
なぜか、楽に出来ること、つまり才能のあることを選ばずに生きてきて、なんでしんどいのかが分からずに苦労をしてきました。
そして、そんな姿を見た親や親戚や上司は、
という言葉をかけてくるんです。
いや、そんな言葉が欲しいんじゃなくて、楽になりたいんだよ僕は!って思ってました。
わざわざツラいことをして、なぜか上手くいかないことしっかり選ぶ。そしていらない評価を得て余計に苦しむ・・・
もしあなたがこの意見に共感するのなら、この言葉を送りたいと思います。
あなたは何も悪く無い‼︎‼️
あなたの近くで、そういう生き方を仕向けた人たちがいたんです。
あなたは、その人たちの意見に従わざるを得なかっただけです。
才能がないのではなく
では、あなたの才能は一体どこにあるのでしょうか?
当然、誰にでも才能があるのであなたにも才能があります。
どこにあるのでしょうか?
ここで、才能という言葉ではなく、「自信がある」という言葉で説明していきます。
あなたには「自信がある」と言えることはありますか?
・・・ありました?
ちなみに、この質問に「ある!」と答える人はなかなかに自己肯定感の高い人です。そんな人は、おそらくこのブログを読むことはないでしょう 笑
才能が無いと思ってしまう人は、「自信がある」事柄を見つけるのが困難です。
では逆に、「自信がない」と思うことはありますか?
ちょっと考えてみてください。
・・・恐らく、たくさんありすぎて言葉にならないのではないでしょうか?
自信があることはないのに、自信がないことはありすぎると思ってしまう。
これまさに、才能が無いと思ってしまう人の特徴です。
つまり、先ほど出てきたそういう生き方を強要されてきた人と言えます。
「自信がない」の反対は「自信がある」ではありません。
「自信がない」の反対は、「当たり前」という言葉が適切です。
そして、「当たり前」という言葉は「できて当然」という意味で、それは挨拶や歯磨き、ハサミを使うことと同じカテゴリーに分類されてしまいます。
だから才能が見当たらないんです。
挨拶くらいできるし、ハサミくらい使える。と同じカテゴリーに、フルマラソンが走れる、パソコンの修理ができる、車のタイヤ交換ができる、英語が話せる、といった才能が含まれてしまっているんです。
だから何ですか?僕は話せませんよ!
二カ国後話せるのは立派な能力で、英語の知識を英語で増やせるのは才能です。
当たり前になってしまっているだけで、しっかりとスゴイことをしてるんです。
そしてこれは、英語に限らず多くのことに当てはまります。
自分の才能を知りたい人は、ぜひ一度僕に聞いてみてください。
まとめ
もし才能が無いと悩んでるなら、その悩みはあなたが悪いのではありません。
あなたのせいじゃありません。
あなたの良いところを、適切に評価してくれる人が周りにいなかっただけです。
だからあなたは今まで一生懸命頑張ってきたはずです。
そういう心のクセを持って今まで生きてきただけなんです。
だから、あなたは何も悪くない。
実は、これが真実なんです。
才能が無いと思ってしまうのは努力が足らないのではなく、身についたスキルを全部「当たり前」の箱の中に入れてしまっていたからです。
そして、この事実に気が付かないと、これからもずっとスキルを身につけたら当たり前になり、才能が無いと悩むので新しいスキルを身につけ、それがまた当たり前になり・・・
というループを繰り返すことになります。
そんな感じの人生なので、才能が無いと思ってしまう人というのは、実は才能に溢れる人なんです。
才能が無い…と嘆き苦しんでいた僕がいうので間違いありません 笑