どーも。
“改”運トレーナーの前田王子です。
占い全然関係ないんですけど、普段生活してて「まぜそば」ってよく見ません?
名古屋って確か台湾まぜそばの発祥だとかなんとか言われてたり(知らんけど)
名古屋出身の油そば屋さんも結構あるとかないとか(知らんけど)
基本的にラーメン大好き前田さんなので、気になるラーメン屋さんは割とすぐ行くんだけど、「まぜそば」だけはなかなか手が出なかった。
で、今となってはつけ麺もまぜそばも油そばも二郎系も家系も、もうそれただの麺好きじゃん!ってくらいに全部好きなんですけど、なんていうか、全部好きなんだけど、、、
どこの店も美味いんだもん。
っていうのが正直なところです。
あの味が食べたくて!という思い出入るラーメン屋さんはあるにはあるけど、今の時代、割とどこのラーメン屋さんでも美味しいです。
昔なんてさ、「味薄!!!」って思いながら食べてたラーメン屋もあったけどさ、今はホントどこで食べても美味しい。
そんなどこで食べても美味しいラーメンがさ、未だに色々進化してるんですよ。
なんか、すごくないですか?
僕はそんなラーメン屋さんをホント尊敬してます。
そして、移り変わりの早いラーメン業界に、ちょっと先の未来を見るんです。
まぜそばが演出する「自分で完成させるスタイル」
「ヘイ、ラーメンお待ち!」
当たり前のようにスープの中に入っていて、当たり前のようにスープと一緒に食べてたラーメン。
もちろん、当たり前のように完成された状態で出てきます。
そこから、
「自分で混ぜて食べる」
という価値を見出したまぜそばって、ホントすごい革命だと思う。
だって、焼きそばみたいに混ぜてから出すこともできるのに、スープに入ってないから伸びることもないのに。
あえて混ぜさせて食べるなんて、斬新すぎて怖い。
だってカウンターしかないお寿司屋さんで、「まぜにぎり」とか言われてネタとシャリをポンと出されても、「いやいや、握ってよ大将!」ってなる。
つまり完成系を出すことに意味があるわけなのに、そこをあえて未完成の状態で出すんですよ。
これってホント恐ろしいこと。
いや、恐ろしくわないんだけど。
何が言いたいかって、ぶっちゃけまぜたら一緒なんだから焼きそばみたいにどこ食べても美味しい状態にして出してくれてもいいのに、客に混ぜさせるというスタイル。
これってホントにすごい。
しかも何がすごいって、初めてまぜそば食べた時、自分の手で完成していく丼の中が、すっごい楽しかった。
まぜそばを混ぜる作業って、実はとってもクリエイティブな作業なのだ。
これってマジですごい。
さっきも書いたけど、「まぜにぎり」でやってしまうと、にぎり終えた状態に成功と失敗がある。
だけど、まぜそばには成功も失敗もない。
そこにあるのは「まぜ終わった状態」で、味の濃いとこ薄いとこだけだ。
でも、これから自分が食べる料理を一手間かけて完成させてから食べるという行為に、料理の味だけではなくて愛着や満足度がトッピングされる。
既存の料理は、食べる時には完成されたものを崩す作業になるので、味以外のトッピングなんてものはない。
そういった、食と動作、関係ない両者を結びつけた化学反応が、まぜそばにはあると思っている。
そこが革命だと思うんです。
技術の発達は味に革命をもたらすか?
「味」ということを声高に語れる身分じゃないけど、確かに感動するほど美味いお刺身とか食べた時は、そりゃシンプルに感動する。
今まで食べてたスーパーのマグロの赤身はなんだったんだ!?ってくらいに思ったこともある。
だけど、この話をラーメンというフォーマットの中で考えた時、「味」自体には限界があると思う。
たかだか1,000円そこそこで、どこまでの満足度を提供するかという話になる。
素材にも限界があれば、工程数にも限界がある。
だからこそ、工程数を減らすことで、逆に満足度をあげることに成功したまぜそばは、革命だと思うわけです。
完成であることを捨てて、未完成のものに価値を見出す。
完成されたラーメンは確かに美味しいけど、実のところそれ以上のものを提供できないということを、まぜそばが示したことになる。(とはいえラーメンも美味しいけどね!)
技術が進んだので、大体どんなものでも再現できる。
新しい味も新しいスタイルも、大手ラーメンチェーンがすぐ再現する。
となると、個人店や小規模チェーン店は、進化しないと生きてはいけない。
大手チェーン店を下回れば、選ばれる理由がなくなるから。
そこでしか味わえない価値を提供し続けなければならないわけなんだけど、だからと言って、それが「味」である必要がないということが、技術が発達した結果明るみに出てしまった。
味の限界値を、体験というトッピングで回避したとも言えるんじゃないだろうか。
だから「まぜそば」が生まれたことって、ものすごく価値のある進化だと思う。
DIYのジレンマ
DIY(Do It Yourself)という言葉が気づいたら一般的になっている今だけど、意外と身近なところにDIYプレイヤーがいない。
むしろ僕自身がなかなかのDIYプレイヤーなのだ。(自分で言うのもなんだけどね!)
DIYって不思議なもので、わざわざ古びた感じに塗り直したり、店で買えるのにわざわざ自分で作ったりする。
DIYの目的って、利便性よりも、作る工程にあるんだと思う。
使いやすいように棚を改良する時は別として。
自分で作った野菜を食べると、なんだかえらい美味しく感じたりするけど、それはやはり自分で作ったという調味料が付いているからだと思う。
DIYには、そんな空気感を感じるところがある。
売りに出せる完成品を作ることが目的じゃないわけだ。
ところがある程度のDIYプレイヤーともなると、今度は完成度を求めたくもなってくる。
これは占い師としての経験上、命式的にこだわりが強い人ほどDIYしがち、という節はある。
こだわりがないならそもそも店員に言われたやつ買うからね。
で、完成度を求めたくなったDIYプレイヤーは、素人よりは上手に作れるけど、プロには勝てないというジレンマに陥る。
そりゃ何十年もプロでやってる人に、そこそこDIYプレイヤーが勝てるなんておこがましいんだけど、「まだ先がある」ということを知ってしまったDIYプレイヤーに、簡単に諦めろなんて言えないわけで。
でも、そこそこDIYプレイヤーのその先は、かっこよく言えば修羅の道だ。
教えてくれる人がいるようでいないし、初心者講座は見当たるけど中級者講座なんて集客しにくいモノをなかなか提供できるわけでもないし、中級者以上にもなればそこそこ料金だって取りたいのが提供する側の心理な訳で。
そして、その満たされない欲求と満たせるかもしれない可能性、そこの間に、いつでもビジネスチャンスが転がっているんだと思う。
時間が経てば、人は勝手に育つものだ。
要は、時と共に育った素人たちを、いつの時代も相手にしないといけない。
そして、未来の可能性
ラーメンは、まぜそばという進化を見たわけだけど、時と共に人は育つ。
あれだけクリエイティブな活動だった「まぜる」という行為も、きっといつしか面倒になってしまうんだと思う。
だって、まぜそばをまぜる行為は、失敗もなければ成功もなく、いつでも限りなく成功に近いところに着地するから。
だったらもう混ぜといてくれよ、とも思えちゃう。
じゃあ次は、麺でも打ってもらうか?味を混ぜれるようにしてみるか?
どちらもチャレンジングではあるけれど、ラーメン・まぜそばというお手軽麺料理のフォーマットの中での利便性や簡易さから離れてしまう。
背脂の量くらいは選べても、味の混ぜ具合という失敗する可能性を提供することは、大いに人を選ぶ。
ならそもそも人を選んだ店にしてしまうか、という話になるが、そんな怖いことはなかなかできない中で、どこにスキマがあるかを探さないといけないのだ。
DIYにしても、DIYという言葉が現れて久しいわけで、みんながみんな初心者ではない。
そして、初心者に近い中級者や、上級者に近い中級者も確実に増えている。
ただ机や棚が作れればいいってわけじゃなくて、誰に向けてのどんなものかが重要になってきている。
そば打ちは男のロマンではあるものの、熟練度の奥行きと工程・準備の容易さ、食べる手間が釣り合っていないからなかなか趣味として定着しずらい。
手軽に成功を味わえて(失敗しなくて)、クオリティも保証されてる、そんなスキマを上手く突いた一例をまぜそばに見た気がした。
食べる側か作る側かの違いはあれど、タピオカミルクティーが流行るのもこのスキマを突いているからだと思う。
タピオカミルクティー自体のフォーマットがいいから、上にどんな甘い何某をトッピングしても美味いに決まってるし。
こうやって未来は、どこかにある新しいスキマを広げて作られていくんだと思う。
そして新しい技術が、スキマを開けるきっかけになることもある。
世界はもうある程度調べ尽くされちゃったけど、未来にはまだまだ未知の部分が多い。
だから、未来のことを考えるのは、大航海時代の新大陸発見みたいでホント楽しい。