どーも。
“改”運トレーナーの前田王子です。
オリンピックの話題で炎上中の小山田圭吾さんの記事を見てて、ふと命式を見てみました。
こ、これは・・・僕もモノづくりに携わる人のはしくれとして、ちょっと複雑な気持ちになりました。
好きな人の笑顔が見れるなら
小山田圭吾さんの命式はこちら↓
Wikipedia情報なので、この生年月日で合ってるものとして。
命式を見る限りは、友達思いというか、素直に友達の笑顔が見れるなら、そのためには割となんだってするようなタイプ。
自分のやりたいことを遮られるのが嫌いで、自ら率先して動くタイプではなく、誰か大事な人に対して尽くすみたいな人物像を想像します。
いじめっ子だったエピソードが過激すぎて、それがヘイト買っちゃってるわけだけど、思うにそれは、友達を笑わせようとしての行動だったんだと思う。(だからと言って人を傷つけていい理由にはならんのは当然のこととして)
クラスとか学年に一人はいるような、笑いのためなら何だってする子というか、体張ってでも笑わせようとする子の亜種みたいな感じです。
あとは、いじめてた子に対しても悪びれる様子がなかったことも炎上の対象になってるけど、本人もインタビューで語ってるように、本当に悪気がなかったんだと思う。
形としては「いじめ」なんだけど、それは友達を笑わせる一環で、障害を持ってた子をターゲットにしてたところもあるみたいだけど、それはそれで、小山田さん的にはコミュニケーションの一つだったんだと思う。(良し悪しは一旦横に置いといて、あくまで命式を見ての解釈)
いじめる対象も選んでいて、と言ってもじっくり獲物を選ぶというわけじゃなくて、初めはただの軽いコミュニケーションから始まったんだけど、ふざけ出したら友達が笑ってくれたし、その子も別に拒否しなかったから、「じゃ、大丈夫かな」くらいの気持ちだったんじゃないかと。
「人を喜ばせる」という価値観にはクリエイティブな感性が必要で、毎回同じことをやってても飽きられてしまう。
だからいじめる人は、あの手この手と手を替え品を替え、いろいろなことを思いつく。
それは子供心に、「友達を喜ばせたい」という素直な気持ちで、ただそこに、いじめられる子がどう思うか、ということに対する想像力が働いてないだけなんだと思う。
だからいじめってエスカレートする。
それは、ただ強い刺激やスリルが欲しくて、ということだけじゃなく、「友達を喜ばせたい」という素直な気持ちに根差しているというところが、より悲劇を生む結果になってしまう。
性悪説じゃなくて、現代の闇
じゃあ、小山田圭吾は悪人なのか?
となると、必ずしもそうじゃない。
子供の行動というのは基本的に「誰か(特に母親)に喜んでもらいたい」という思いに根差していて、それが根本の性質(四柱推命で言えば命式)による表現の違いになってくる。
母親が喜んでくれれば、「誰かに喜んでもらいたい」という思いは達成されて、欲求の段階は次に進むけど、その思いが達成されないと、「誰かに喜んでもらいたい」という欲が満たされずに、満たされない欲求を別の何かで埋めようとし出す。
特に子供なので、そこに大人が考えるような善悪の概念を持ち込まずに、「喜んでもらえた」という甘美な成功体験(いじめっ子で言えば、対象をいじめたことで喜んで欲しい人が笑ってくれた、という体験)を得られる行動だけを選択していく。
特に小山田さんの命式的には、結構サービス精神が旺盛なので、ただひたすら友達に喜んでもらおうとクリエイティブに活動していたことが、実は「いじめ」だった、という感じなんだと思う。
もちろん「いじめ」というのは最低な行為であることは間違い無いんだけど、人をいじめるという行為に及んでしまうほどに、満たされない環境があったわけで、それがどこかと言えば、やはり家庭環境ということになる。
小山田圭吾の少年期の価値観と命式を見れば、きっとなかなかの家庭環境で育ってきたんだろうということは、想像に難くない。人様の家庭環境をとやかく言うのは心苦しいし、他人が口出すもんじゃないっちゃない。なぜなら基本的にどこのご家庭でも、子供を愛さない親はいないから。(その愛の行く末はどうであれ)
だけど、子供を愛する余裕が持てないという現代の闇も確かに存在するわけで、小山田圭吾は、そんな近代社会の落とし子と言えるんじゃないかと思う。
そして、子供が愛情で満たされないツケは、大体学校で支払われる。
奇しくも、そこで得た「友達を喜ばせる」という成功体験と、それに伴うクリエイティビティが、彼の持ち味であり武器になっている。
けどそれにしては悲しすぎる話であり、多くの犠牲を払い過ぎている。
Twitterを見てたら、この件に関して上手くまとめてあるツイートを見つけた。
小山田圭吾は心が欠けてたんでしょ。可哀想なのは、いじめられた障害者ではなく、人にうんこ食わせれることができる彼。こんな人が減ればいい、いじめっ子よりもいつもいじめれる人を哀れだと俺は思う
— 村本大輔 (@WRHMURAMOTO) July 20, 2021
ホントその通りだと思うけど、村本さんが言うと妙なヘイトを買ってしまってコメント欄が変に荒れるから、見ててモヤッとするけども 笑
誰が悪い、あいつが悪い!みたいな感情的な善悪論で語られがちないじめ問題だけど、どちらかと言うと、小山田圭吾みたいな子供を作ってしまう社会システムや教育システムに問題があると思うんだけど、それを語り出すと
って話になっちゃうから、それは横に置いといて。
でも、基本的に問題の根本にあるのは、いつも社会システムや教育システム、もっと言えば貨幣経済という前提なのは間違いない。
「お金」というシステムがなければ、そもそもこんな問題は起こらない。
だけど、現代には「お金」というシステムでもって運営されてるし、義務教育という精度がビッチリ敷かれているので、子供のうちからそこから抜け出すことはほぼ不可能になっている。
そして日本は敗戦国だから、大戦の後にこういう社会になるようにデザインされてる経緯があるわけなんだけど、それを言い出してもそんな大きな仕組みを変えられないから、せめて大人になってから気付いた人が、順番にそんな不幸な社会システムから抜け出すことが求められる。
とは言っても、テレビに学校に病院と、日本には信頼できてしまえる「罠」が目白押しなので、なかなかどうにも自由になるのは難しい。
何が言いたかったのかというと・・・
言いたいことはたくさんあるし、思うところはたくさんあるけど、こういった問題に対して「解決したい!」とか「何とかしたい!」って思っちゃうことが、まさに「罠」にハマった状態だよ!ということ。
非人道的に超ズルくて賢い大人たちが作った世の中のルールに巻き込まれると、それはもう相手の思うツボ。
そもそも、こういった社会不和を生み出すことが想定内の社会構造の中に僕らは生きているわけなので、まずは自分の思考だけでもそこから抜け出せるようにしないと、どうにもならない問題に対してSNSで喧々轟々騒いで時間を無駄に消費する人になってしまう。
さらに子供は、そんな大人たちを見て育つわけです。
大人があーでもないこーでもないって騒いでたら、今の子供が大きくなった時はもっとあーでもないこーでもないって言う。
何とかしたいのは山々なんだけど、何ともならないことだってある。
誰も見てないところでこっそりやられてることには、誰も気づけないし、そういうのが上手い人がコソコソやるわけです。
そういうのを予防しようとするんじゃなくて、ことが起こってからしっかり対応できるようになる方を、僕は大事にしたいと思っています。
理想論や綺麗事じゃ何も解決しないけど、現代人は理想論や綺麗事を語りたがります。
それは、そういう人になっちゃう教育をしっかり受けてきたからで、その視点に立ってる以上、第2第3の小山田圭吾が現れてもおかしくないと思うわけです。(多分発覚してないだけで結構いる)