どーも。
“改”運トレーナーの前田王子です。
突然ですが、
アナタハ ウラナイヲ シンジマスカー?
はい、突然失礼しました。
「信じる」って言葉って、ビックリするほど影響力強いと思いません?
でも、最近思うんですよ。
信じてるからダメなんじゃね?
って。

そういう短絡的な話ではなくて、「信じる」ということ、信じている状態というのって、ある種の思考停止だと思うんですね。
ほら、信じるっていう言葉を使う時って、確証がないことに対して使うじゃないですか。
- 医者が言ったから
- 親が言ってたから
- 占い師に言われたから
そうやって、盲目的に何かを信じることって、実は非常に危ないことなんだなーって思ったわけですよ。
昔は、情報を吟味するための情報がありませんでした。
今は、インターネット様のおかげで、分からなかったら調べ、調べても分からなければ誰かに聞いて、そんな便利なことができます。
でも、調べてもよくわからないことってありますよね。
インフルエンザ予防接種を受けましょう!
インフルエンザ予防接種は受けるべきじゃない!
・・・どっちやねん!
って話もネット上には転がっているし、どちらもある意味では正しくて、ある意味では間違っているのかもしれません。
占い師という仕事をして分かったことですが、ホントに人は一人ひとり違う生き物です。
自分に合ってたから友達にも合うとは限りません。
だけど、自分に合ってたから他の人にも合う、そんなこともあります。
誰に向けた話なのか、それは自分に向けられた話なのか、何を基準に自分はそれを見ているのか。
ただ文字になっていることを鵜呑みにするんじゃなくて、行間というか文脈というか、そういった雰囲気やニュアンスを感じることが、これからの時代(もちろん今の時代にも)必要だと思うわけです。
ニュースでアナウンサーが、
「春が来ました」
と言ったから春なんだな、ではないですよね。
いつも通る道端に小さなつくしを見つけたり、
桜の花が芽吹いてきていたり、
荒地だった田んぼが耕されていたり。
空の青さや風の冷たさ、
日中の日差しの強さや、
あ、もうパーカーだけでいいなと思うこと。
そんな見える景色や感じることから、情報って取り入れているはずなんです。
そんな、「感じる」という大事な感覚を忘れてしまって、簡単な「字面(じづら)」を信じてしまうと、ホントに大事なことを見落としてしまいます。
履歴書だけで人を判断できないように、判断材料ってめちゃくちゃ色々あるんですよ。
目は口程に物を言うし、昔の人ってそういう感覚を大事にしていたんだと思います。
便利になればなるほど、失われてしまうものがあります。
「感じる」という感性も、きっとその一つなんだろうなーと思うわけです。
で、もう一方で、
「信じる」って簡単じゃね?
とも言えます。
信じるって、前にも書いたけど、ある種の思考停止状態なんですよね。
分からないことに関しては、とりあえず誰かの何かを信じておけばいい。
・・・じゃなくて、もう一歩も二歩も踏み込めるんですよ。
- ピンと来た
- ビビビッと来た
- キュピーン!ってなった
感じる時に使う言葉って色々あるけど、そんな感覚をもっと信用してもいいと思うわけです。
だって一人一人違うわけだから、再現性やそんな理屈も大事だけど、根拠の無い感覚も、実はその人にとっての根拠なんですよねー。
そして、
そんな感覚を信じていった先に、みんな大好き「引き寄せの法則」が待っているわけです。