どーも。
“改”運トレーナーの前田王子です。
ちょっと怖いタイトルですが、今回はそんな感じです。
そのくらい厄介な話だということですね。
人は当たり前のように教え教えられで成長していくものですが、そこには意外な落とし穴があるんです。
教える人の「良かれと思って」
教える人と教えられる人って、基本的には立場が違います。
知ってる人が教えて、知らない人が教えられるわけです。(たまに例外もあるけど)
ただそこにめちゃくちゃ大事な要素があって、それが教えてる人も相手のことをよく知らないということ。
つまり、教えてる人は自分が理解できるように教えるわけです。
相手のことを完全に把握できないから、あくまで自分ベースで考えて言葉を紡ぎ出すしかないんです。
なので、教える側は基本的に、良かれと思って相手を慮ることしかできないんです。
これはそもそも「言葉」という不自由なコミュニケーションツールの仕組み上仕方のないものなんですが、ついついそこを踏まえずに発してしまうのもまた、「言葉」なんです。
占い師という、相手に言葉を伝える仕事をするようになって気付いたことですが、言葉を相手に伝える上で、踏まえないといけないことがいくつかあるんですよね。
知らない状態の時は、その踏まえないといけない部分をすっ飛ばして言葉を出してしまいます。
でも、それが悪いことなのではなくて、仕方のないことなんです。
だって、人間は生まれて数年で言葉を覚えて、「当たり前」という感覚も一緒に覚えるわけで、大人になるにつれて、

ということを学んでいくわけです。
つまり、失敗を通してアップデートしていかないといけないんです。
でも、その作業が一番大変なんです。
だから、「良かれと思って」で行動してしまえば、失敗とアップデートを通らなくてもいいから楽なんです。
でも、だから上手くいかないんです。
教えられる側の「この人が言うんだから」
教える方は、教えられる人のことを完全に理解した上で教えられないから、だから想像力を働かせて伝える必要があります。
対して教えられる側について。
教えられる側は、状況にもよるけど、基本的に教える人の言うことを(ある程度)真に受けないといけないです。
例えば、ドアを引いて開けるか、押して開けるか、のように、教えた通りに行えばいいものばかりなら、この世はどんなに楽だろうと思うけど、世の中そんなに甘くないんですよね。
基本的に「教える」と言う行為は、抽象的な話や感覚、感性の部分も含みますし、教える側の言葉のチョイスもあります。
そしてそれを、知らない側が受け取らないといけないわけです。
大前提として、壮大な伝言ゲームなわけです。
前章では、教える側の意識の話をしましたが、同じように、聞く側の意識の問題もあるんです。
そう、教えてもらう側は、分かってないから教えてもらっているんです。
そして、まずは分かった気になって、実践を通して理解に至るわけです。
つまり、教えられる側が理解に至るまでには、タイムラグがあるということです。
日常的に「教える・教えられる」ということをやってますが、実のところ、めちゃくちゃ難しいことをやっているんです。
言葉で説明するとこんなにも難しいことを、「この人が言うんだから」という雑な考えでつるんと飲み込んでしまえるんです。
ここに、いかに理解の取りこぼしがあるかということを、教えてもらう側も想像力を働かせる必要があります。
抽象的な話でよく分からないと思うので、逆上がりを例えに出しますが、逆上がりのアドバイスとしては、
- 蹴り足を意識すること
- 胸と鉄棒の距離を意識すること
- 腕をを曲げておくこと
などなど、色々な角度のアドバイスがあります。
では、アドバイスをしてもらったからといって、逆上がりができるようになるかというと、必ずしもそうではありません。
むしろアドバイスを聞いたところで一向にできないなんてこともあるわけで、教える側と教えられる側には、そもそもこれくらいの差がある、ということなんです。
思うにそれは、聞く側の問題
教える人と教えられる人、世の中的にどちらが多いかと言うと、教えられる人です。
まず子供のうちは身近な大人に全て教わって、学校に入っても社会に出ても、いつも教えられることばかりです。
そして、教えられてきた経験を通して、教える人へと成長していくわけです。
教え方の本なんかは色々あるんだけど、逆に聞き手側の問題って、あまり扱われないです。
「お前の聞き方が悪いんだよ!」
なんてことは、誰しも言われたくないんです。
もちろん僕もそんなこと言われたらブチ切れます 笑
で、「聞き手側の問題」ということなんですが、それって先ほどの逆上がりの例にもあるように、基本的に教えられてる状態って、逆上がりを教えられてる時のようなスタンスなんですよね。
教えられてもできないし、かといって教えられないと進まないし。
そんな状況なわけです。
だけど実のところ、教えられる側も、想像力を大いに使わないといけないんです。
特に、今の情報過多の時代においては、「想像力」という言葉が非常に大きな意味を持ちます。
言葉って、ただ言葉の通りに受け止めればいい代物ではなくなっていて、その言葉の裏にあるもの、その言葉を発した人がどんな人なのか、そういった周辺情報も込みで受け取らないといけないモノです。
「駅はどちらですか?」
「駅はこの先の信号を左です」
こんなコミュニケーションなんて、一番最初の英語の教科書くらいでしか存在しないんです。
大人になってからのコミュニケーションにおいて、聞き手の想像力不足というのが、割と深刻な問題だと最近ちょくちょく思います。
なぜそう思うのか?
それは、今までの「教える・教えられる」というコミュニケーションが、あまりにも餌を渡す親鳥と餌を待つ雛鳥の構図でありすぎたから。
日本は何かと豊かなので、特に今まではそれで良かったんです。
ネット検索が主流のインターネットだった頃には、自分で何かを調べる人、つまり情報を取りに行く感性を持った人が多く生まれたんじゃないかと思いますが、今のインターネットは、タイムラインを流れてくる情報を流しそうめん的に摂取する形に変わってきました。
つまり、意図的に知識を取りに行く感性を持っていないと、流れてきた餌を流れてきたままに飲み込む状態になってしまうんです。
そしてそれが常習化してしまうんです。
言葉でのコミュニケーションというのは、そもそも難しいものだというのは冒頭に書きました。
その難しいコミュニケーションである言葉を、流しそうめんくらいに簡単にしてしまっているから、多くの意味を含んだ言葉でもつるんと飲み込んでしまうんです。
タイトルにもあるように、確かに教えることは人を殺します。(価値観や人間性を壊す的な意味で、実際に殺すわけじゃないよ!)
でもそれって、実は殺される側のディフェンスの脆さ、悪さ、脆弱さがそうさせてしまっているとも言えるんです。
どちらかというと、教えられる側のリテラシーの低さ問題だと思うんです。
だって今の世の中は、(教えようという意図のある)情報が、勝手に目や耳に入ってきてしまう時代だから。